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2005年11月9日

国民投票制度視察13~マーダー・スイス司法省局次長

スロバキア国民議会の真向かいにあるブラチスラバ(スロバキアの首都)城をバックに記念撮影。rnこの日(11月9日)は、早朝バスでウィーンを発ち、ブラチスラバでの調査を行った後、夕刻にウィーン空港へ、そして、その足でスイスのチューリッヒへという日程だった。

2005年11月9日

国民投票制度視察12~国民投票運動ポスター

11月9日、ドルゴネッツ憲法委員長はじめ、国会憲法委員会のメンバーと会談。rn「国民投票は、わりに良く使われる政治の道具(ツール)」との説明。メチアル元首相が、NATO加盟等の案件を、国会に諮らずに国民投票に付して(投票率不足等で不成立)葬ってしまったなどの経緯があるらしい。rnまた、スロバキアは、50%の最低得票率制度があるが、最近の国政選挙の投票率は低下傾向にあり、この数回の国民投票も、賛成が多い場合でも不成立という事態が続いていることもあり、委員の多くが、「国民投票を積極的に活用すべき」という意見を持っているような印象は受けなかった。

2005年11月8日

国民投票制度視察5~フォーグル・オーストリア内務省総局長

11月8日、中央選挙管理委員会の副委員長も務めるフォーグル内務省総局長。rnオーストリアの国民投票制度について、詳細、かつ、実務的な説明を聴く。rn買収は禁止されているものの、運動制限は極めて緩やかな印象。rn

2005年11月8日

国民投票制度視察11~ハルディマン・スイス国営放送編集長

11月8日、中央選挙管理委員会の副委員長も務めるフォーグル内務省総局長。rnオーストリアの国民投票制度について、詳細、かつ、実務的な説明を聴く。rn買収は禁止されているものの、運動制限は極めて緩やかな印象。

2005年11月8日

国民投票制度視察10~アシュバンデン・スイスの新聞社編集委員

アポイントメントの合間に、明治初年、新たな国づくりのため、2年間にわたり、外国事情を視察した岩倉視察団(岩倉具実、木戸孝允、大久保利通ら)も訪れた旧オーストリア帝国の武器庫跡(現軍事視博物館)を訪問。rn写真は、第1次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件当時、射殺されたフェルナンド皇太子が着用していた軍服。

2005年11月8日

国民投票制度視察9~クカン・スロバキア外相

11月8日、86年の歴史を持つ世界最古の憲法裁判所のコネリック長官を囲んで。rn国民投票の問いかけがあいまいでないか、各種選挙も含め、その投票や選挙が無効ではないかといった審査も行う機関。ただし、結果の無効との判断は、不正の有無の事実認定よりも、「その事実が合った場合、結果に影響を与えたか否か」をまず判定するという。その意味で合理的だ。rn会談後、国民投票の資料のほか、「音楽も憲法と同じくらい大事」という言葉とともに、2005ニューイヤーコンサートのCDをおみやげにくれた。rn

2005年11月8日

国民投票制度視察8~チーチ・スロバキア大統領府長官

11月8日、憲法学者でもあるオーストリアのコール下院議長と会談。rn制度についての説明も勿論だが、「戦後2つの国民投票のうち、1つは、政策の可否よりも政権の好き嫌いと結びついたために失敗した。国民投票にかける内容については、国民に対して、時間をかけてしっかり説明することが大切。」とのコメントが印象に残った。rn

2005年11月8日

国民投票制度視察7~ブラチスラバ城

わが国には、憲法改正国民投票について、その手続を定める法律がない。rn今、この法律の制定のための各党協議が具体化しつつある。これは実は戦後初めてのこと。私は、11月7日から18日まで、衆院憲法調査特別委員会の派遣の自民公共社の議員団(団長 中山太郎委員長)に加わり、欧州5カ国を調査。rn11月7日深夜にウィーン着。翌朝最初の訪問先、オーストリア国民議会前にて。rn

2005年11月5日

改憲・護憲の垣根を超えて~国民1人1人が憲法を創る(守る)仕組みを

「憲法改正国民投票は国民の統合に大きく寄与」

衆議院憲法調査特別委員会は、11月7日から19日までの間、委員8名に欧州5か国を視察させ、国民投票制度についての調査を行うことになった(私の参加は18日まで)。
メンバーは、自・民・公・共・社の各党から次の8人。
自民党中山太郎・衆院憲法調査特別委員長(衆7、参4期)
保岡興治・党憲法調査会長(衆11期)
私、葉梨康弘(衆2期)
民主党枝野幸男・党憲法調査会長(衆5期)
古川元久・党憲法調査会事務局長(衆4期)
公明党高木陽介・党広報局長(衆4期)
共産党笠井亮・党国際局次長(衆1、参1期)
社民党辻元清美・党政審会長代理(衆3期)

2005年11月1日

権力の怖さを知っていたからこその平和主義~政治家・後藤田正晴先生の死を悼む

10月31日、去る9月19日に逝去された後藤田正晴元副総理の「お別れの会」がしめやかに行われた。

後藤田元副総理お別れの会

後藤田正晴氏は、私にとって、警察庁・内務省の43年先輩。
役所時代のダブリはないが、警察庁長官を務められ、「カミソリ」と異名をとった先輩の伝説は、色々なところで聞いた。
私が先輩に直接お会いしたのは、平成に入ってから、警察庁外勤課及び少年課時代に数回、さらに、退官後私自身が政治家を目指してから数回、いずれも、晩年の温顔に触れさせて頂いた思い出がある。
この日の「お別れの会」では、先輩の「ハト派」の側面が強調されていた。
もっとも世間には、「警察官僚出身」という先輩の経歴と、「ハト派」としての先輩の姿のギャップに不可解さを感じる人もいるようだ。
でも、私は、同じ役所の後輩だからこそ、政治家・後藤田正晴に、「権力の怖さを知っていたからこその平和主義」を見る。役所出身の政治家となると、世間的には、どうしても、「出身省庁の利益の代弁をしている」というイメージがある。
でも、後藤田正晴先輩は、大変「身内に厳しい」政治家だった。
私の役人時代、警察庁の官僚にとって、先輩の評判は、「警察庁出身なのに、警察庁に対して厳しい」というもの。
例えば、警察官の増員の問題にしても、与野党を問わず、多くの政治家は、「地元の要望を考えると警察官は是非増員して下さい」と、警察庁の応援団になってくれる。
しかし、先輩の場合は、役人が説明に行くと、開口一番、「増員しなくてももっと工夫できるはずだ、工夫をした上で持ってこい」という反応が多かったと聞いている。