空疎な菅氏主導の「脱原発」議論~政府は「福島第1原発事故」の検証を滞らせるな

2011-8-5

地元の会合でも、原発・放射能の問題は良く話題に上る

7月13日、鳩山前首相の言によれば「6月中にも退陣」するはずだった菅首相が、突如記者会見を開くと内閣記者会に通告、いわゆる「脱原発」方針を表明した。
しかし、翌日には、枝野官房長官が、記者会見の内容は、「遠い将来の希望」と菅首相の発言を微妙に否定し、海江田経産大臣も巻き込んで閣内不一致の政権の末期症状を露呈する事態となった。
ただ、菅氏が、いわゆる「脱原発」を表明して以降、それまでの、「福島原発の事故は(政府の対応の拙劣さによる)人災」といった菅氏への批判が表に出なくなり、「『脱原発』は日本経済を無視した思いつき」といった政権批判がマスコミを賑わしたかと思うと、その一方で、「原発は今すぐにでも止めて欲しい」という市民の声も、大きく報道されるようになってきた。
私はこの現象は、「菅直人氏の思う壺」というような気がしてならない。私は、残念ながら、今のところ、「脱原発」か「原発維持」か「原発推進」かを断定的に判断するエビデンス(具体的根拠)を持ち合わせていない。
なぜなら、福島原発事故がここまで拡大したことについての検証作業に関する情報が明らかになっていないからだ。
「原発事故」は極めて恐ろしい。
今後の原発のあり方について考えるとき、天災や戦災(あって欲しくないが)を被り、不測の事態に直面したときでも、「絶対的な安全」が確保できるのかどうかが極めて重要な要素になる。

(7月13日の会見での菅氏の断定)
菅氏は、7月13日の記者会見の冒頭、原発に依存しない社会を目指すと考えるに至った理由として、次の発言を行った。
「私自身、3月11日のこの原子力事故が起きて、それを経験するまでは原発については安全性を確認しながら活用していくと、こういう立場で政策を考え、また発言をしてまいりました。しかし、3月11日のこの大きな原子力事故を私自身体験をする中で、(中略)そういったこの原子力事故のリスクの大きさということを考えたときに、これまで考えていた安全確保という考え方だけではもはや律することができない。そうした技術であるということを痛感をいたしました。」
すなわち、菅氏は、原発を、「安全確保という考え方」では、「もはや律することのできない技術」であると断定(痛感)したわけだ。
菅氏のこの断定が正しいとするならば、人類は、「脱原発」か「原発維持」か「原発推進」かといった議論をするまでもなく、必然的に「脱原発」に進まなければならないことになる。
すなわち、そもそも原発の「安全確保」を律することができないならば、既存、あるいは今後建設予定の原発について、どのような安全性のテストを行ったとしても、ムダなことだからだ。
ただ、私には、菅氏が、福島第1原発事故の詳細な検証を踏まえて、上記の発言を行ったとはとても思えない。

(原発事故は人災か?)
私たちは、菅氏が、「脱原発」を表明するまでは、国会論戦や報道では、管氏の原発事故対応、初動の遅れに非難が集中していたことを想起すべきと思う。
いわく、日本政府や東電は、初動段階での米国からの支援要請を断ってしまった。
いわく、3月12日の菅氏の福島原発視察が、初動段階での事故対応を遅延させた等々。
実際、5月13日の参議院予算委員会で、青山繁晴参考人(原子力委員会専門委員)は、次の発言を行っている。
「津波によって、タービン建屋などは徹底的に破壊されたけれども、原子炉建屋は、実は津波の直撃を受けた段階ではまだ、しっかりしていた。(中略)凄まじい、破壊力の津波を初めて、体験したわけですけれども、(中略)それによってもなお、原子炉建屋と中の格納容器、圧力容器は大半が無事であったと。そうしますと、現場を見た限りにおいては、あるいは現場の作業員の方々や吉田所長と議論した限りにおいては、実は天災と呼ぶべきは、その、今、申しました津波と地震の被害にとどめて考えるべきであって、実際は、事象、事故が始まったあとの、判断ミスなどによる、対応の遅れによって、水素爆発が起きて、放射性物質の漏洩の大半も、全てではありません、正確に申しますが、多くのものも、その事後の、いわば、判断ミスや操作ミスによって起きた(中略)人災と考えるべきと、専門家のはしくれの1人としては、考えるに至りました。」
私は、青山氏の発言が正しいと即断するわけではないが、この発言が正しいとすれば、福島原発事故は、確かに津波による損傷は受けたけれども、本来はよりレベルの低い、環境への影響も少ない事故で収束するはずだったものが、菅氏をトップとする事故対応チームの判断ミス等により、チェルノブイリ並の大事故にしてしまったということになる。
だとすれば、菅氏の責任は、やはり極めて大きい。

(急がれる福島原発事故の詳細な検証)
私は別に、菅氏個人の責任問題を問おうとしているのではない。
ただ、今後の原発への向き合い方を考える上では、福島で何があったのか、事故対応で誰がどのような役割を果たしたのか、早急、かつ、詳細な検証が不可欠と言うことだ。
その上で、もしも原発技術が、菅氏が痛感したように、「安全確保の考え方では律し得ない技術」であり、どんなに技術の粋を尽くしても、また、どんなに有能な指導者が事故対応に当たっても、甚大な被害をもたらさざるを得なかったとするならば、人類の進むべき方向は、「脱原発」しかあり得ない。
また、福島原発事故が、仮に、わが国特有のいわゆる「平和ボケ」を象徴するもので、諸外国やIAEAの標準と比べても劣った安全基準や危機管理マニュアルしか整備されていなかったことに起因したものならば、早急に新たな安全基準等を策定し、国民に情報を開示し、国民の意見を踏まえて原発への向き合い方を論ずるべきだ。
そしてその際は、これまで原発推進を進めながら、必要な準備を怠ってきた、自民党政権時代の責任も問われなければなるまい。
さらにもしも、福島原発事故による甚大な被害の大半が、原発の設計思想に起因するものでなく、事故対応に当たった為政者の無能や判断ミスによる人災であったとすれば、危険なのは、原発よりも、むしろ為政者の方ということになる。
この場合、私たちは、第1に、「『原発よりも危険』な為政者」を選ばないための方策について知恵を絞らなければならない。

原発再稼働を求める経済界の声も日増しに大きくなっているようだが、だとすればますます、福島原発事故の検証を早急に行うことが極めて大切だ。
しかし、それが今、なぜか、遅々として進んでいない。あるいは、情報が公開されていない。
新潟県の泉田知事が、7月26日、「ストレステスト」後の柏崎刈谷原発の再稼働問題について、「(ストレステストは)やらないよりやったほうがいいという程度で、(福島)原発の事故の検証なしに運転を再開することはありえない。」と述べたのは、至極当然のことと思う。

ただ、政府与党が検証を行うと、どうしても身内の甘さが出てくる。福島原発事故の検証は、やはり、国会の場で、野党も参加して行っていくべきではないか。